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奈良
(
なら
)
、
平安時代
(
へいあんじだい
)
、なぜ
江戸
(
えど
)
は
無視
(
むし
)
されたのか >>
江戸
(
えど
)
の
背後地
(
はいこうち
)
は
広大
(
こうだい
)
な
平野部
(
へいやぶ
)
をつくっているがそこは
雑木林
(
ぞうきばやし
)
で、
武蔵野
(
むさしの
)
の
逃
(
に
)
げ
水
(
みず
)
と
言
(
い
)
われるように、
昨日
(
きのう
)
まで
川
(
かわ
)
があったかと
思
(
おも
)
うと、
今日
(
きょう
)
はもう
消
(
き
)
えてしまっている。
農業
(
のうぎょう
)
で
何
(
なに
)
よりも
必要
(
ひつよう
)
なものは
水
(
みず
)
で、そのために
まいまい
井戸
(
いど
)
という、かたつむりの
渦巻状
(
うずまきじょう
)
の
殻
(
から
)
に
似
(
に
)
た
螺旋状
(
らせんじょう
)
の
道
(
みち
)
をもつ
井戸
(
いど
)
を
掘
(
ほ
)
ったものだった。
というのは
人間
(
にんげん
)
が
中
(
なか
)
に
入
(
はい
)
ることができるように
螺旋状
(
らせんじょう
)
に
掘
(
ほ
)
っていったわけで、
上方
(
かみがた
)
では
井戸
(
いど
)
と
言
(
い
)
えば、
掘
(
ほ
)
るだけで
釣瓶
(
つるべ
)
で
水
(
みず
)
を
汲
(
く
)
み
出
(
だ
)
せばよいが、
武蔵野
(
むさしの
)
では、
深
(
ふか
)
い
穴
(
あな
)
の
中
(
なか
)
に
人
(
ひと
)
が
入
(
はい
)
って、
桶
(
おけ
)
で
汲
(
く
)
み
出
(
だ
)
した。
しかも
土質
(
どしつ
)
は
関東
(
かんとう
)
ローム
層
(
そう
)
で
作物
(
さくもつ
)
に
適
(
てき
)
さず、おまけに
水
(
みず
)
が
少
(
すく
)
なかった。
利根川
(
とねがわ
)
の
流域
(
りゅういき
)
には
田畑
(
たはた
)
があるけれど、これは
暴
(
あば
)
れ
川
(
かわ
)
で
年中洪水
(
ねんじゅうこうずい
)
を
起
(
お
)
こしていた。
奈良
(
なら
)
、
平安時代
(
へいあんじだい
)
に
大和
(
やまと
)
や
京都
(
きょうと
)
を
発
(
はっ
)
して
東国
(
とうごく
)
へ
行
(
い
)
く
道路
(
どうろ
)
は、
現在
(
げんざい
)
でいう
中山道
(
なかせんどう
)
を
利用
(
りよう
)
したもので、
信濃
(
しなの
)
の
国
(
くに
)
(
長野県
(
ながのけん
)
)から
上野
(
こうずけ
)
の
国
(
くに
)
(
群馬県
(
ぐんまけん
)
)を
抜
(
ぬ
)
けて、
仙台方面
(
せんだいほうめん
)
へ
向
(
む
)
かった。
仙台市
(
せんだいし
)
の
近
(
ちか
)
くに
多賀城
(
たがじょう
)
があって、
戦国時代
(
せんごくじだい
)
の
城
(
しろ
)
とは
異
(
こと
)
なるが、
当時
(
とうじ
)
としては
大
(
おお
)
きな
砦
(
とりで
)
をなしていて、その
中
(
なか
)
に
役所
(
やくしょ
)
もあれば
軍平
(
ぐんぺい
)
も
住
(
す
)
んでいた。これは
当時
(
とうじ
)
でいうと
最果
(
さいは
)
ての
役所
(
やくしょ
)
で、
官吏
(
かんり
)
や
軍人
(
ぐんじん
)
も
多賀城
(
たがじょう
)
までは
行
(
い
)
っていたが、
彼
(
かれ
)
らは
碓氷峠
(
うすいとうげ
)
からまっすぐ
福島方面
(
ふくしまほうめん
)
へ
向
(
む
)
かったもので、
南
(
みなみ
)
のほうに
位置
(
いち
)
する
江戸
(
えど
)
へはまったく
立
(
た
)
ち
寄
(
よ
)
らなかった
。
というのも、
江戸
(
えど
)
には
彼
(
かれ
)
らを
呼
(
よ
)
び
寄
(
よ
)
せるなんの
魅力
(
みりょく
)
もなく
、
人影
(
ひとかげ
)
もまばらな
農漁村
(
のうぎょそん
)
にすぎなかったからである。さらに
鎌倉
(
かまくら
)
から
東
(
ひがし
)
へ
行
(
い
)
く
場合
(
ばあい
)
も、
現在
(
げんざい
)
の
神奈川県
(
かながわけん
)
の
横須賀
(
よこすか
)
あたりから
船
(
ふね
)
で
房総半島
(
ぼうそうはんとう
)
へ
渡
(
わた
)
ったもので、
江戸
(
えど
)
はまったく
無視
(
むし
)
されていた。
当時
(
とうじ
)
の
江戸
(
えど
)
は、
単
(
たん
)
なる
漁村
(
ぎょそん
)
であり、
農村
(
のうそん
)
であった。
太田道灌
(
おおたどうかん
)
が
住
(
す
)
んでいた
頃
(
ころ
)
の
江戸城
(
えどじょう
)
のつい
足許
(
あしもと
)
に、ひたひたと
渚
(
なぎさ
)
が
迫
(
せま
)
っていて、
日比谷
(
ひびや
)
の
浜
(
はま
)
と
呼
(
よ
)
ばれていた。
江戸城
(
えどじょう
)
の
真下
(
ました
)
は
海岸
(
かいがん
)
で、
現在
(
げんざい
)
の
銀座
(
ぎんざ
)
や
築地
(
つきじ
)
は
海浜
(
かいひん
)
であり、
八重洲
(
やえす
)
は
文字
(
もじ
)
どおり
砂州
(
さす
)
であった。
築地
(
つきじ
)
は
神田
(
かんだ
)
の
山
(
やま
)
を
取
(
と
)
り
崩
(
くず
)
して
埋
(
う
)
め
立
(
た
)
てた
人工
(
じんこう
)
の
造成地
(
ぞうせいち
)
である。
現在
(
げんざい
)
の
東京
(
とうきょう
)
も
東京湾
(
とうきょうわん
)
を
埋
(
う
)
め
立
(
た
)
て、ウオーター・フロント
都市
(
とし
)
と
称
(
しょう
)
しているが、それは
江戸時代
(
えどじだい
)
に
端
(
たん
)
を
発
(
はっ
)
している。
<< Your Assignment >>
Assignment:
Answer the following questions.
How was called
Edo
's well?
Why was
Edo
small village before the
Edo
period?
How was curret
Hibiya
section at that time?
How about
Tsukiji
?
How did the people travel from
Kamakura
to the east area?